銘酒「十四代」の唯一の弟子が醸す、人生を捧げる日本酒づくり

PHOTOGRAPH=太田隆生
9月6日GOETHEによると、山口・萩で100年続く澄川酒造場。初代当主が亡き妻を思って名づけた美酒「東洋美人」を醸す澄川宜史(すみかわたかふみ)は、日本酒界のスーパースター・高木辰五郎氏の薫陶を受け、その哲学を次世代へ伝えるべく酒づくりに人生を捧げる。水害などの困難を乗り越えながら「命を削る酒づくり」に邁進する男の生き様を追った。 【写真】美酒「東洋美人」の酒造りの様子
人生を決定づけた、高木辰五郎との出会い
蔵の裏手にある山を30mほど登った開けた台地。ここの田んぼは日当たりが良好。日中は森から涼やかな風が吹き抜けつつ、昼夜の寒暖の差が稲にほどよい緊張感を与えるなど、極めて美味しいお米の育つ環境が整っている。豊かな自然の中で育まれた米、そして清らかな水が澄川宜史が醸す大人気銘柄「東洋美人」の核になっている。 「実は私が蔵を継いだ頃は経営難で、いいお米を買うことができず、売上げは山口県の蔵のなかでも最下位に近く、当時は劣等感しかありませんでした」 確かに日本酒業界は戦後の三増酒の黒歴史を引きずり、澄川が生まれた1970年代は日本酒離れが急速に進んでいた時代。大手清酒メーカーに押されて地方の酒蔵は苦境に立たされていた。 1980年代には第1次地酒ブームが起こり、一部の地酒に注目が集まる流れもあったが、資本力なくしてはその流れに乗れない。また、当時は蔵元当主は経営者で、仕込みの時期になると杜氏がやってきて酒づくりをする分業制が当たり前だった。 「うちのような極小の地方酒蔵では、売上げは減少するばかり。山田錦などいいお米を買えないばかりか、杜氏を雇えなくなるのも時間の問題でした」 澄川が将来に不安を抱えながら東京農業大学で学んでいた1990年代前半、地方の極小酒蔵に一縷(いちる)の望みを与えてくれる若きスーパースターが登場した。山形「十四代」の蔵元、高木酒造の15代目高木辰五郎氏だ。※前・顕統(あきつな)氏。高木顕統氏は2023年3月に15代目高木辰五郎を襲名 蔵を任された辰五郎氏は自ら杜氏となり、試行錯誤を重ね、当時ブームとなっていた淡麗辛口とは一線を画したお酒を醸した。酒米の種類や磨き具合、仕込みを細分化。洗練させたエレガントな芳醇旨口の風味は大きな注目を浴びていた。 「父が『はせがわ酒店』を介して、大学の学外学習の研修先として高木酒造に入らせてもらえるよう頼んでくれました。ものづくりの哲学を学ぶ環境として最高の道を用意してくれたのです。なんとか苦境を乗り切って代を継なげてほしいと願う父の精いっぱいの贈り物でした」 父の思いに応えなければという気持ちももちろんあったが、辰五郎氏に会った途端、オーラのある人柄、深い洞察と思考から生みだされる言葉、立ち居振る舞いに魅了され、酒づくりに人生を捧げる覚悟が決まった。 こうして大学3年生の12月、一ヵ月弱を辰五郎氏と寝食をともにし、洗米から麹づくり、仕込み、酒母づくりなどを経て瓶詰めまで、酒づくりをひととおり経験させてもらった。 「技術的なことはもちろんですが、ものづくりに対する姿勢などもっと根本的なことが心に刻まれました。その研修時代が私の人生のなかで最も濃密な時間。顕統さんがいなかったら今の自分はありません」 辰五郎氏から学んだのは「ものづくりをするなら現場の人間であれ、酒づくりひと筋で生きろ」ということ。そして「飲む人だけでなく、つくり手自身も幸せになる酒づくり」だ。それは現場に立ち続け、自分が思い描く味を追求した“作品”をつくること。そして、納得した作品をつくっていれば、必ず飲む人に伝わる。「望まれて飲んでもらえる酒をつくること」は常に辰五郎氏が言っていたことだった。
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